エリス少年の伝説とは?ラグビー誕生の物語と真実を分かりやすく解説

エリス少年の伝説とは?ラグビー誕生の物語と真実を分かりやすく解説
エリス少年の伝説とは?ラグビー誕生の物語と真実を分かりやすく解説
観戦・歴史・文化

「ラグビーは、一人の少年がルールを破ってボールを持って走ったことから始まった」。そんなドラマチックな話を聞いたことはありませんか?これは、ラグビー界で最も有名な「エリス少年の伝説」です。1823年、イギリスのパブリックスクールで起きたとされるこの出来事は、今なお語り継がれ、ワールドカップの優勝トロフィーにもその名が刻まれています。しかし、この話には意外な真実や、あまり知られていない歴史的背景が隠されています。この記事では、エリス少年の伝説の全貌から、彼がどんな人物だったのか、そしてなぜ「ラグビーの始祖」として称えられるようになったのかを、やさしく解説していきます。

エリス少年の伝説:ラグビーはいかにして生まれたのか

ラグビーの起源として語られるこの伝説は、単なる昔話以上の意味を持っています。まずは、具体的にどのような出来事が語り継がれているのか、その舞台や当時の状況を詳しく見ていきましょう。

1823年の出来事

伝説によると、運命の日は1823年の秋のことでした。場所はイングランド中部にある名門パブリックスクール、ラグビー校のグラウンドです。生徒たちはフットボールの試合に熱中していました。当時のフットボールは、今のサッカーともラグビーとも違う、まだルールが統一されていない荒々しいものでした。

試合中、ウィリアム・ウェブ・エリスという一人の少年がボールをキャッチしました。当時のルールでは、ボールを手でキャッチすることは認められていましたが、その場から少し下がってキックをするのが常識でした。しかし、エリス少年は何を思ったか、ボールを抱えたまま相手ゴールに向かって走り出したのです。

この「ボールを持って走る」という行為こそが、現在のラグビーフットボールの原型になったと言われています。周囲の生徒たちが驚き、戸惑う中で行われたこのプレーが、新しいスポーツの幕開けとなったという劇的なストーリーです。

ラグビー校という舞台

舞台となったラグビー校は、1567年に創設された歴史ある寄宿学校です。19世紀初頭、当時の校長トーマス・アーノルド博士の改革によって、教育だけでなくスポーツを通じた人格形成が重視されるようになっていました。広大な芝生のグラウンド「ザ・クローズ」は、生徒たちがエネルギーを発散させる神聖な場所でした。

この学校には「ビッグサイド」と呼ばれる独特の試合形式がありました。数十人、時には百人以上の生徒が入り乱れてボールを追いかけるのです。審判はおらず、生徒たち自身がルールを管理していました。そんな自由な気風があったからこそ、エリス少年の突発的なプレーも生まれたのかもしれません。

当時のフットボールのルール

「ルールを破った」と言われますが、当時のルールはどのようなものだったのでしょうか。実は、1823年頃のラグビー校のフットボールでは、ボールを手で扱うこと自体は禁止されていませんでした。「フェアキャッチ」といって、飛んできたボールを空中でキャッチすることは許されていたのです。

ただし、キャッチした後は「踵(かかと)で地面にマークをする」必要があり、そこからフリーキックを蹴るのが決まりでした。つまり、「手で捕る」まではOKでも、「持ったまま前に進む」ことは反則だったのです。エリス少年の行動が画期的だったのは、この「前進する」という点においてでした。

伝説が広まった背景

実は、このエピソードが書物として世に出たのは、出来事から50年以上も経ってからのことでした。1876年、ラグビー校のOBであるマシュー・ブロクサムという人物が、学校の広報誌『ザ・メテオ』に手紙を送ったのがきっかけです。

ブロクサム自身はこのプレーを目撃していませんでしたが、「ある無名の証言者から聞いた話」として紹介しました。当時、サッカー(アソシエーション・フットボール)とラグビーが袂を分かちつつあった時期であり、ラグビー独自のアピールポイントとして、この英雄的な物語が好意的に受け入れられたと考えられています。

ウィリアム・ウェブ・エリスとはどんな人物だったのか

伝説の主役であるウィリアム・ウェブ・エリス。彼は単なる「ルール破りの少年」ではなく、その後の人生においても興味深い足跡を残しています。ここでは、彼の実像に迫ります。

生い立ちと家族

ウィリアム・ウェブ・エリスは、1806年にマンチェスター近郊のサルフォードで生まれました。父親はジェームズ・エリスといい、竜騎兵連隊の将校でした。しかし、エリスが幼い頃に父親はナポレオン戦争(半島戦争)で戦死してしまいます。

未亡人となった母親のアンは、息子たちに良い教育を受けさせるため、ラグビーの町へ引っ越すことを決意しました。当時、ラグビー校の近隣に住む家庭の子弟は、奨学生(ファウンデーショナー)として学費が免除される制度があったからです。母の決断のおかげで、エリスは名門校に通うことができました。

ラグビー校卒業後の進路

ラグビー校を卒業したエリスは、優秀な奨学生としてオックスフォード大学のブレーズノーズ・カレッジに進学します。大学時代のエリスは、実はラグビー(フットボール)選手としてではなく、クリケットの選手として名を馳せていました。オックスフォード大学対ケンブリッジ大学の対抗戦にも出場した記録が残っています。

学業を終えた後は、聖職者の道を選びました。ロンドンの教会などで牧師として勤務し、特にクリミア戦争の際には、兵士たちを鼓舞する説教を行ったことで知られています。当時の新聞『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』には、説教をする彼の肖像画が掲載されており、これが現在知られている唯一のエリスの肖像です。

晩年とフランスでの生活

生涯独身を通したエリスは、晩年をフランスで過ごしました。健康上の理由や保養のためだったと考えられています。彼は日記や手紙をほとんど残さなかったため、フランスでの詳細な生活ぶりは謎に包まれていますが、静かな余生を送っていたようです。

そして1872年、南フランスの美しい町マントンで65歳の生涯を閉じました。彼が亡くなったとき、自分が将来「ラグビーの発明者」として世界中で崇められることになるとは、夢にも思っていなかったでしょう。彼自身が「あの時ボールを持って走ったのは私だ」と公言した記録は一切残っていないのです。

マントンにあるお墓

エリスが亡くなってから長い間、彼のお墓の場所は忘れ去られていました。しかし1958年、ギネスブックの創始者の一人として知られるロス・マクワーターが、マントンの「ヴュー・シャトー墓地」でエリスの墓を発見しました。

現在、このお墓はきれいに修復され、ラグビーファンにとっての聖地の一つとなっています。墓石には世界中のラグビー関係者から捧げられた花や記念碑が飾られており、フランスの地で静かに眠る伝説の少年を今も称えています。

伝説の真偽:歴史的な検証と事実

ここまで伝説と人物像を見てきましたが、果たして「1823年にエリス少年がボールを持って走った」というのは歴史的な事実なのでしょうか。多くの歴史家やラグビー愛好家がこの謎に挑んできました。

1895年の調査報告書

エリス少年の話が有名になるにつれ、「本当にそんなことがあったのか?」という疑問の声も上がりました。そこで1895年、ラグビー校のOB会である「オールド・ラグビアン・ソサエティ」が本格的な調査を行いました。当時の生徒たちに手紙を書き、証言を集めたのです。

しかし、残念ながら決定的な証拠は見つかりませんでした。「エリスが走ったのを見た」という直接の目撃者は一人もおらず、集まったのは「そういえばそんな噂を聞いたことがある」といった曖昧な情報ばかりでした。この調査報告書でも、エリスの行為が事実であると断定することは避けられています。

目撃証言の少なさ

1823年当時、エリスと一緒にプレーしていたはずの生徒たちの日記や手紙にも、この「革命的なプレー」に関する記述は見当たりません。もし本当に試合中にルールを大きく破るような行為があれば、何かしらの記録に残っていても不思議ではありません。

このことから、歴史家の多くは、ラグビーという競技の発生は「一人の少年の突発的な行動」によるものではなく、長い時間をかけて徐々にルールが変化していった結果だと考えています。エリス少年の伝説は、その変化を象徴するための物語として定着した可能性が高いのです。

ルールの進化としてのラグビー

実際のところ、当時のフットボールは「ハッキング(相手のすねを蹴る行為)」が認められている荒っぽいものでした。蹴り合いが中心のゲームから、ボールを持って走るゲームへと移行するには、多くの議論と時間の経過が必要でした。

1830年代から40年代にかけて、ラグビー校では徐々に「ランニングイン(ボールを持ってゴールへ走る)」が容認されるようになりました。エリス少年個人の功績というよりは、当時の生徒たちが面白さを追求してルールを改良していった結果、ラグビーというスポーツが形作られたと考えるのが自然です。

なぜエリス少年は「ラグビーの始祖」として称えられるのか

歴史的な真偽が定かではないにもかかわらず、なぜウィリアム・ウェブ・エリスはこれほどまでに特別視されているのでしょうか。そこには、ラグビーというスポーツが大切にしている精神と、象徴への敬意が込められています。

象徴としての必要性

どのようなスポーツや文化にも「始まりの物語」が必要です。特に19世紀後半、サッカーとラグビーが分裂し、それぞれのアイデンティティを確立しようとしていた時期において、ラグビー側には「独自性」を主張できる起源が必要でした。

「既存のルールに縛られず、自らの判断で勇気を持ってボールを前に運んだ少年」というエリスの物語は、ラグビーが重んじる「自由」や「情熱」を表現するのに完璧なストーリーでした。事実はどうあれ、この伝説はラグビーの精神的支柱として機能してきたのです。

ウェブ・エリス・カップの存在

エリス少年の名声を決定づけているのが、ラグビーワールドカップの優勝トロフィー「ウェブ・エリス・カップ」です。1987年の第1回大会開催にあたり、優勝国に贈るカップの名前として彼の名が採用されました。

このカップは純銀製で金メッキが施され、ヴィクトリア朝時代のデザインを基に作られています。高さは約38センチとそれほど大きくありませんが、その輝きは全ラガーマンの憧れです。4年に一度、このカップを掲げることこそが、世界中のラグビー選手の最大の目標となっています。

ワールドラグビー殿堂入り

国際統括団体であるワールドラグビー(旧IRB)も、エリス少年を公式に称えています。彼は「ワールドラグビー殿堂」の最初の殿堂入りメンバーの一人として名を連ねています。

たとえ1823年の出来事が伝説であったとしても、彼がラグビーという競技の象徴的存在であることに変わりはありません。公式組織が彼を認めることで、伝説は「公式な歴史」としての地位を確立しました。

2023年フランス大会での再注目

ラグビー誕生200周年の節目となった2023年、フランスで開催されたワールドカップでは、エリス少年の伝説が再び大きく取り上げられました。開会式では、1823年のラグビー校の様子を描いたショートフィルムが上映され、少年がボールを持って走り出すシーンが世界中に配信されました。

この大会を通じて、エリス少年は単なる過去の人ではなく、現在進行形でラグビーの価値観を伝えるアイコンであることが再確認されました。彼が眠るフランスでの大会だったことも、この伝説をより感動的なものにしました。

エリス少年の伝説を感じられるスポット

エリス少年の伝説に触れたいなら、実際にゆかりの地を訪れてみるのもおすすめです。歴史の重みと、ラグビー発祥の空気を感じられる場所がいくつか存在します。

ラグビー校の銅像と記念碑

イングランドのウォリックシャー州にあるラグビー校には、ボールを抱えて走るエリス少年の銅像が建てられています。また、有名な「ドクターズ・ウォール」と呼ばれる壁には、彼の行為を称える石碑が埋め込まれています。

その石碑には、「ルールの見事な無視(a fine disregard for the rules)」という有名な言葉が刻まれています。この言葉こそが、型にはまらず新しい可能性を切り開いたエリスの精神を表しているとして、多くのファンに愛されています。

「ザ・クローズ」グラウンド

ラグビー校の敷地内にあるグラウンド「ザ・クローズ」は、まさに伝説が生まれた場所です。現在も美しく整備された芝生のピッチとして使われており、ゴールポストがそびえ立っています。

ここでは今でも生徒たちがラグビーを楽しんでおり、200年前と同じ風が吹いています。見学ツアーなどに参加すれば、この歴史的なグラウンドを間近で見ることができるかもしれません。

ラグビー博物館

ラグビー校のすぐ近くには「ラグビー・スクール・ミュージアム」や、街の「ラグビー・アート・ギャラリー&ミュージアム」があります。ここでは、初期の楕円球のボールや、エリス少年に関する資料、古いジャージなどが展示されています。

特に、ラグビーボールがなぜ豚の膀胱を使って作られたのか、なぜ楕円形になったのかといった道具の歴史も学ぶことができ、エリス少年の生きた時代背景をより深く理解することができます。

まとめ:エリス少年の伝説が教えてくれること

まとめ
まとめ

エリス少年の伝説について解説してきましたが、いかがでしたでしょうか。1823年、ウィリアム・ウェブ・エリスがボールを持って走ったという物語は、歴史的な証拠こそ少ないものの、ラグビーというスポーツの魂そのものを表しています。

「既存のルールに疑問を持ち、勇気を持って新しい一歩を踏み出すこと」。この「ルールの見事な無視」という精神は、革新を恐れない姿勢として、現代のラグビーにも通じるものがあります。ワールドカップの熱狂の中で「ウェブ・エリス・カップ」という名前を耳にしたときは、ぜひこの少年の物語と、ラグビーが歩んできた長い歴史に思いを馳せてみてください。

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